阪神淡路大震災:あれから22年(2017)

C2UQKZDUsAAmtVuあれから22年。

今年は、眠れず。

あの日、成人式に参加するために、神戸に戻った大学生も少なくない。

 

僕は、大手シンクタンクで、リスクマネジメントに関わっていたので、その後、暫く、本業離れ、ボランティアに明け暮れた。多くの東京の企業の皆さんからの静かな支えがあった

 

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②在京企業からの備蓄品搬送などの応援

東京の企業は、首都直下地震用の備蓄を放出。条件は、企業名を出さないこと 当時はインターネットの黎明期なので、ネットに参加する皆さんは少なく。活きた情報求め、ニフティサーブに繋ぎ、神戸と東京の企業人を結んだ 情報を収集し、一斉FAXで送信

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③ボランティア情報の一斉ファックス

一斉送信のFAXは、日立製作所から。担当副部長(その後部長)は、企業に、専門のリスクマネジメント部が出来た初めてのケース。1990年からの知り合い。 一斉FAXの宛先先は、広告会社から。元大使をサポートする課長さんからのご厚意に甘えた。

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④泊まり込み業務

本業を離れたが、会社からは給与が出た。会社の机と椅子を使わせて頂き、電源も。泊まり込み仕事を続けたが、査定も普段のままだった。その時に大学院卒業し、入社した新卒は、その2年後、僕のチームに。長くリスクマネジメントの仕事を一緒にした。今の番頭

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⑤まずは安否確認

震災の少し前に目が覚めた。徹夜続きで、寝が浅く。習慣でベッドサイドのテレビを点けていたら地震のニュース。スタッフが神戸にご両親が転勤して居住。早朝にどう伝えるか、暫く迷い、電話で叩き起こす。まだ電話が繋がっており、両親の安否確認が出来た

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⑥手のひらサイズ

早期の安否確認が、その後も、迷いなく復旧へのサポート可能なことを学んだ瞬間でもある。 早朝や深夜、冬の逃げ場、その後の火災延焼。緊急時マニュアルは、手のひらサイズへ。様々なアイデアが、ボランティアの間に浮かんだ。 それと弱者への配慮。

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⑦弱者の銭湯への輸送

道路が復旧しても、弱者が混乱する中、車椅子で、A地点からB地点の銭湯に向かうのは難しい。なので、車でのピストン輸送に、バイトに来ていた学生のネットワークを使い、時間を決め、A地点とB地点に人を集め、クルマへの乗車、下車を手伝った。

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⑧リスクマネジャーの養成

ボランティアはエンドレスになるので区切りが必要だ。始めるのも自分。区切りをつけるのも自分。宣言し、離れる。僕は本業で、震災からの復興、企業のリスクマネジメント体制の整備、プロのリスクマネジャーの養成へと舵を切った。マスコミを通じ、概念を拡散

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⑨首都直下地震

その後も、大きな震災が続く。首都直下地震という本番は、まだ来ない。 高齢社会になり、電車やバスが止まり、孤立するだけで、命に関わる時代。自らがどこにいて、何をしているのか、家族や介護関係者に「宣言」「伝達」することが大事となる。

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⑩帰宅困難者

いついかなる時という意味では、それぞれが自立して逃げる体制。3日ほど会社や学校、外出先(取引先や買い物、行楽先)で、サバイバル出来る体制。 夜、就寝する場所の近くに、メガネ、時計、普段飲む薬、ガウン、靴(外履き)、懐中電灯、自宅の鍵など。

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⑪マンション対応

マンションは、構造物が堅牢なのか。あるいは居住密度が高いからか。地域の支援からは外されている事実がある。自らがが備蓄し、サバイバルせざるを得ない。地域の被災支援は戸建てを基本としている。普段からの居住者の交流、共同備蓄は欠かせない。

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⑫共稼ぎ

自宅に介護者、子供を預けて共稼ぎなど。それぞれが誰の支援を受け、どのように連絡を取り合うのか。首都以外の、田舎や第二の故郷を決め、都心で輻輳を回避したい。そのためには故郷納税に、首都直下枠を設け、疎開先含めた交流の検討をお願いしたい。

 

連投していましたら、震災発生の時間が来ました。

(黙祷)


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